乳腺と向き合う日々に

2021.04.20

私が担当させていただいた患者さんに向けて

「先生にはまだまだ姫路赤十字病院で手術を頑張ってもらって、もっともっとたくさんの人を救ってほしかった、そう思ってさみしがっている患者さんは私だけではないと思う」

 今日いただいた言葉です。私以外の外科医もみんなその道は通ったでしょう。

 本当はもっと後に、今まで姫路赤十字病院で担当させていただいた患者さんに向けてのコラムを書くつもりでした。これからの抱負も大事だけれども、これまで担当させていただいた患者さんへ、今回のことを私の言葉で伝えておくことも大切なことと考え、今ここで書いていこうと思いました。

 

 乳がんの患者さんとの付き合いは、私が医者になりたての頃には術後5年とされていました。現在は10年どころか、その患者さんの治癒後の検診まで含めると、その方が、そして私が元気でいてくださる限り、ずっと続いていきます。がんを克服し、元通りの生活に復帰され、元気なってくださった患者さんとお会いすることにどんなストレスがあるでしょう。それが自分の仕事になるのなら、毎日、そして一日中でも楽しく働いていられるでしょう。

 私はこの播州地区のがん拠点病院に赴任して10年間と数か月、平均すると年に300人近くの新しい患者さんと向き合ってきました。一人残らず、元気になっていただきたかったですが、残念な経過をたどられた方もおられます。それでもその方の命の続く限り、外来に来てくださって、10年でほぼ3000人を越える患者さんを担当させていただきました。

 姫路赤十字病院では、病状の重い方、化学治療が必要な方、監視が必要な方を私の外来に残し、それ以外の元気で治癒が望める患者さんは年1回の外来を残して、できるだけ地域の病院に帰っていただきました。そしてそれでもカバーしきれない患者さんは、この、にしはら乳腺クリニックに姫路赤十字病院がお休みの土曜日に来させていただき、外来診察させていただいてきました。術後すぐの方を1年に1度の外来でフォローできたのはそのことあってのことです。

 現在保険診療では3か月分がお薬の処方の限界になります。たしかにたとえば6か月分もの薬を診察なしで処方することは無責任でしょう。そのため、3か月に1度、年に4回、お薬のある方は必ず外来受診が必要になります。3000人の患者さんすべてではありませんが、その半分で通院が必要としても、年4回だとのべ6000人を土曜日に診察させていただかないといけません。年52週に土曜日は52回、全部で外来をしても1日に100人以上の診察が必要になります。最近の2年は3か月では回しきれず、3か月と1週とか、2週間で来ていただくことが増え、薬が足らなかった、と叱られることが増えてきました。恥ずかしいのですが、患者さんは長期間薬を飲用されていると、よく飲み忘れて、少しずつ薬が余っていきます。それを逆手にとって3か月より長い期間で回していたのです。正しく飲んでいただいている方に限って迷惑をかけるという本末転倒を起こし始めていました。それはとてもつらいことでした。

 姫路赤十字病院の外来はしかし元気になられた患者さんを診療する余裕は全くありませんでした。まず当たり前のこととして、平均して週に8から10人の新しい乳がん患者さんが来られます。そのことへの対応は当たり前のことです。

乳がんでは、再発や、進行して治癒が望めなくなったとしても、薬物治療の進歩により個人差はありますが数年の延命が期待できます。初診時に末期がんと診断され、手術すらできなかった患者さんを、化学治療だけで10年以上頑張っていただけた例もめずらしくありません。20年前の論文であっても、乳がんは再発後3年9か月の余命が望めるとされていました。現在ではおそらく5年を超えているのではないでしょうか。

 こうした患者さんのほとんどが最低でも月1回、化学治療であればほぼ毎週の外来通院が必要です。乳腺科では内科外科が分かれていないため、診断から、検査、そして手術、抗がん剤など薬物治療まで、すべて外科医が担当することになります。

 乳がん患者さんのうち残念ながら2割弱の患者さんが今でも再発されます。単純に計算すれば5年分1500人のうち、300人の方が残念ながら再発や、転移などの理由で、月1回、多ければ毎週の通院を余儀なくされています。

 患者さんにとって、精神的、社会的、そして経済的にも負担が重く、長くつらい期間です。私たちもそれに向き合っていきます。ただ病状の重い300人の患者さんを週2回の外来で診療していかなければなりません。これもまたすでに限界になっていました。

 手術についても同様です。これ以上数の話はやめます。ただ手術は経験が重要であることは論を待ちませんが、体力、そして持続力もまた重要です。私は辰年生まれです。年齢は計算してください。そして皆さんがご自身の眼が何歳まで現役だったか思い出していただきたいと思います。もちろん私もまだ見えます。ただ眼の事情もあわせて、自分のベストだと言い切れるパフォーマンスは40代後半でした。50歳からは自分と戦ってはじめて100点が出せるところまで体力が落ちていました。これもまた限界が近づいていることを認めざるをえない。手術に失敗はあり得ません。100点以外ないのです。不合格など可能性ですら許されません。命がかかっているのですから

 

 限界まで頑張って、もうダメとなったら潔くスパッとやめる、そういう考えの外科医もいるかもしれません。それ以降は山にこもって畑をして暮らせるならいいでしょう。しかしそれをすればある日突然主治医がいなくなる患者さんがいることになります。再発や転移で苦しんでいる方が突然放り出されることになる。まして私がしたようにどこかで医師を続けながら、これからはこちらの患者さんを“責任もって”診ていきます、は矛盾しすぎていて誰も信じないでしょう。

 医者は転勤族なので、私も今までの人生でそれをせざるを得なかったことが何度かありました。そのたび、患者さんを裏切り、放り出し、無責任なことをしてきた、と言われても仕方がないと思います。ただ今回は自分の意思と、自分の医者としての事情がすべてです。ほかに責任を持っていくことはできない。

 わたしはそこで少しずつ立場を変えていく方法を考えました。このまま姫路赤十字病院で部長職を続ける限り、立場を変えられないので、新しい患者さんは増え続けます。病状が進んだ状態で救急性のある方も持たないといけません。その立場からは退職しました。

そして佐藤先生のご厚意で、週1回の外来と、手術日を残していただき、自分がいままで診させていただいていた病状が予断を許さない患者さん、そして手術も私の経験が必要な患者さんのための日を残していただきました。二足の草鞋にみえますが、けっしてそうではないのです。いままでの患者さんを姫路赤十字病院が許してくださる限り、そして患者さんに必要とされる限りは見させていただきつつ、徐々に地域の患者さんの検診へとシフトしていく、それが私の計画です。いままでの患者さんをできるだけ裏切らず、そして自分の持っている経験や知識をまだまだ生かせる検診や、地域の住民に寄り添う身近な施設での診療に軸足を移していこう、そこで自分の人生と使命をまっとうする、そう決めたのです。

移行には何年もかかるかもしれません。ただ私から無理やり移行するのではなく、新しく何かがなければ次第に必要とされなくなるでしょう、そうしてそこから自然に引きながら、これからの自分であってもその力が生かせる分野に軸足を移していく、そうしよう、と決めました。

この4月から、土曜日以外にも自分の外来患者さんたちを診させていただけるようになり、私のせいでわかっていながら薬が足らなくなる心配はさせなくてもよくなりました(とはいえ計算を間違ったらごめんなさい)。パンクしてしまう心配はありません。改めていままでどおりこれからも診させてください。

姫路赤十字病院では、私のところに来られる方はすでにがんの宣告は済んでいる方がほとんどでした。これからは私ががんを見つけて宣告する立場になります。改めてその難しさを痛感しています。
 私は外科医として、乳腺の専門医として、腕を磨き、知識を増やすことを努力してきましたが、末期状態まで進行した患者さんはどうしても救えませんでした。逆にステージ01で見つかっていれば、最前線の治療も、原則抗がん剤による苦しみも必要ありません。特別な医師も、技術も、施設も必要ではないのです。これからは進行して見つかる方を少しでも減らしていけるよう、早期発見を増やしていくよう地域の方のそばで啓蒙もしていけるでしょう。

それぞれの人生において、それぞれの器と年齢において、医療に最大限の貢献をしていきたい、その気持ちには変わりはないつもりです。

長文になりましたが、またお会いできる日を楽しみに、ここで終わりたいと思います。

                 油彩 パネル F8

「白い花 神戸植物園」

名前も知らない花なのですが、美しい花でした。珍しい花だったと記憶しています。わざわざ「今 〇〇が咲いています!」と書いてあったような。また詳しい人がおられたら教えてください。

→「オオヤマレンゲ」という木の花なんだそうです。森の貴婦人と呼ばれています。教えていただきました。